アーティストの体調不良による公演中止は防げるのか 健康管理の仕組み化という観点から考える

アーティストの体調不良による公演中止は防げるのか 健康管理の仕組み化という観点から考える

TOMOYUKI SHIMAWAKI(島脇 伴行) トレーナー/ヘルスコーチ|BODY DIRECTOR

参考文献:査読済み臨床試験・系統的レビュー

この記事でわかること
  • コンサートツアー・海外公演が、どれほどの規模の経済活動なのか(公的データが示す規模感)
  • 体調不良による公演中止が、なぜ”小さなトラブル”では済まないのか(経済的な重みの構造)
  • 無理に出演を続けることが招くもう一つのリスク——喉・声帯や身体への不可逆的なダメージ
  • 「中止してはいけない」という空気を、なぜアーティスト個人一人に負わせるべきではないのか
  • 判断者を置くのではなく、判断が属人化しないための”組織の健康の構造”をどう設計・運用・継続していくか

公演を中止するかどうかを、最終的に誰が決めているのでしょうか。多くのケースで、「やれるか、やれないか」の判断は、本人の意思に集約されます。声が明らかに出ない状況であれば、舞台監督や音響スタッフといった周囲の関係者が「続行不可能」という判断を下すこともあります。しかし現場で実際に多いのは、そこまで明確ではない、本人にしかわからない声帯や体調の異常です。時には本人自身も判断がつかない状態があります。客観的な指標がないなかで、その判断を下す側は大きな責任を背負っています。私は600公演以上のツアーに帯同する中で、この構造の重さと向き合い続けてきました。

<体験談>600公演を通じて見えてきた、判断のグレーゾーン

600公演以上に帯同してきた中で、繰り返し向き合ってきた構造があります。声や体調に、誰の目にも明らかな異常がある場合には、舞台監督や音響スタッフが客観的に判断し、続行を止められることもあります。しかし実際の現場でより多いのは、そこまで明確ではないグレーゾーンの状態です。声の調子に違和感はあるが、声は一応出ている。体調は万全ではないが、動けないわけではない。

こうした場面では、判断の拠り所になる客観的な指標がほとんど存在しません。結果として、「出るか、出ないか」という重い判断が、本人の感覚一つに委ねられることになります。私はトレーナーという立場上、その判断そのものを下す権限は持っていません。ただ、この構造に立ち会うたびに、「この重さを本人一人が背負う仕組みのままでいいのだろうか」と感じてきました。

コンサートツアーは、どれほどの規模の経済活動なのか

公演中止と聞いて多くの方がまず思い浮かべるのは、チケット代の払い戻しではないでしょうか。しかし実際の規模感は、それよりもずっと大きなものです。

経済産業省が2026年4月に公表した『音楽産業における海外展開データに関する報告書』によると、2024年実績の推計値として、日本のアーティストによる海外公演の売上は合計513.7億円、そのうち日本アーティストの単独公演分だけでも447.6億円にのぼるとされています。これは為替変動や推計方法の限界を含む推計値ですが、私たちが日々向き合っている「一つの公演」が、国全体で見れば数百億円規模の経済活動の一部であることを示しています。

一つの公演には、会場、照明、音響、輸送、宿泊、グッズ制作、現地プロモーターなど、非常に多くの契約と人が関わっています。中止は、その一点に紐づいたすべての契約と信頼関係が同時に揺らぐ出来事です。

体調不良による公演中止は、なぜ”小さなトラブル”では済まないのか

経済的な連鎖

公演中止による損失は、その日のチケット売上だけにとどまりません。会場費のキャンセル条件、スタッフの人件費、グッズの在庫、輸送や宿泊の手配など、すでに動き出している契約の多くは、中止によって精算・調整が必要になります。海外公演であれば、現地プロモーターとの契約や、次回以降の招へいの可否にも影響しかねません。

信頼という数値化しにくい損失

もう一つ見落とされがちなのが、信頼への影響です。ファンとの約束、現地パートナーとの信頼関係、そして「次も安心して任せられるアーティストか」という業界内の評価は、金額には表れませんが、長期的なキャリアに直結します。

無理に出演を続けることが招く、もう一つのリスク

ここで一度、立ち止まって考えたいことがあります。「中止による損失が大きいから、なんとしても出演すべきだ」という結論に、そのまま飛びついてよいのでしょうか。

運動生理学士として申し上げると、無理な発声は声帯にとって急性の負担となり、声帯出血のような不可逆的なダメージにつながることがあります。

Research — Journal of Voice, 2023

声帯出血後の粘膜波動(声帯の振動のしなやかさ)の長期的な変化を検討した臨床研究。声帯出血を経験した患者23名を対象に、出血前後の粘膜波動を評価したところ、追跡時点で35〜50%の症例に長期的な制限が残ったことが報告されました。また、声の完全休養(絶対安静)の期間の長さが、回復までの時間と有意に相関することも示されています。PubMedにて確認

つまり、「その日を乗り切る」ことを優先した結果、その後何ヶ月、あるいはキャリア全体に影響するダメージを負ってしまう可能性があるということです。中止による経済的損失と、無理な出演によるアーティスト自身への損失は、どちらも軽く扱ってよいものではありません。

<体験談>初日アンコールを見送るという判断が下されたケース

2日間にわたって組まれた公演で、初日の途中、ボーカルの声帯にトラブルが発生した場面に立ち会ったことがあります。風邪などによる炎症ではなく、突発的な過負荷から声帯に炎症が生じた状態でした。その場で下された判断は、初日のアンコール出演を見送るというものでした。

その後、専門の医師による診察と、ステロイド剤を用いた治療が行われました。治療の判断や方針そのものは医師の領域であり、私がコメントする立場にはありません。ただ、現場で私が見ていたのは、出演時間の短縮という現場側の判断と、速やかな医療機関の受診という判断が、チームとして連動して動いたということです。結果として2日目は治療のもとで実施でき、ツアー全体としてはベターな着地となりました。

重要なのは、この一連の対応が当日その場の思いつきで生まれたわけではないということです。「トラブルが起きたときに誰にどう連絡するか」「どこまで現場で判断し、どこから医療の判断に委ねるか」といった連携の道筋が、事前にある程度整っていたからこそ、土壇場で本人一人に判断が集中せずに済んだのだと思います。もし何の備えもなく、その場で本人一人が「やるかやらないか」を選ばなければならない状況だったら、まったく違う結末になっていた可能性があります。

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「中止してはいけない」という空気を、個人に負わせてはいけない理由

ここまでの話を踏まえると、大事な論点が見えてきます。「中止による損失が大きい」という事実は、「だからアーティストは何があっても出演すべきだ」という結論には直結しません。

その理屈をそのまま現場に持ち込むと、「中止してはいけない」という空気を、アーティスト本人一人に背負わせる構造を作ってしまいます。本人の意識や努力の問題として片付けてしまうと、判断そのものが歪みます。

Research — Workplace Health & Safety, 2023

体調不良のまま出勤・稼働する状態(プレゼンティーズム)の有病率と関連要因を検討した系統的レビュー。一般的な職域では、この状態が本人の健康面だけでなく、周囲への影響や生産性の面でも課題を生むことが指摘されています。プレゼンティーズムの発生率は職種や環境によって大きく異なることも示されており、個人の意志力だけで説明できる問題ではないことを示唆しています。PubMedにて確認

この研究は農業従事者を対象にしたものであり、そのままエンタメ業界に当てはめられるものではありません。ただし、「体調不良を押して現場に立つこと」自体が、個人の意志力だけでコントロールできる問題ではないという点は、業種を超えて共通する示唆だと私は捉えています。

だからこそ必要なのは、「本人がしっかり管理すべき」という言葉ではなく、その判断や状況が本人一人に集約されない構造を、組織として持つという発想です。

判断者を置くのではなく、”組織の健康の構造”を作るという選択

ここで一つ、明確にしておきたいことがあります。健康管理を仕組み化するというのは、「本人の代わりに出演可否を判断してくれる人を置く」という話ではありません。誰か特定の人物に判断を集中させる仕組みは、判断者が変わるだけで、構造としては同じ問題を抱え続けます。

必要なのは、判断そのものをずらすのではなく、判断が属人的な感覚だけに頼らずに済むように、組織として健康の”構造”を持つことです。

私たちが提唱している「ヘルスコーディネーター」という役割は、この構造を担うポジションです。ヘルスコーディネーターは、その場の出演可否を判断する立場ではありません。日々のコンディションを継続的に把握し、現場・医療・マネジメントが同じ言葉で状態を語れる状態を作り、状況に応じた選択肢を事前に用意しておく——そうした組織の健康の”構造”を作り、支え、ツアーやシーズンを通じて運用し続けていく立場です。詳しくは柱記事「コンサートライブの最高のパフォーマンスのための健康管理システム『ヘルスコーディネーター』とは」をご覧ください。

01
継続的な状態の把握
その日のコンディションだけを見るのではなく、日々の状態を継続的に見立てとして蓄積する。判断のための”背景”を組織内に持つ。
02
共通言語の整備
現場スタッフ・医療関係者・マネジメントが、アーティストの状態を同じ言葉で語れるようにする。感覚の伝達の齟齬を減らす。
03
選択肢の事前設計
「実施」か「中止」かの二択で当日を迎えるのではなく、短縮・変更・順序入れ替えなど、複数のシナリオを事前に用意しておく。
04
運用と継続
一度作った構造は、運用し続けなければ形骸化する。ツアーやシーズンを通じて回し、状況に応じて見直していく。

興行中止保険は、中止が発生した後の金銭的な損失をカバーする手段として有効です。しかし保険は「中止させない」ための備えにはなりません。組織として健康の構造を持つことは、保険ではカバーできない領域、つまり「そもそも中止が起きにくい状態を作る」「起きる場合にも、アーティストの心身を守ったうえで選択肢を持てる」という、もう一段手前のリスク対策になります。

注意点・エビデンスの限界について

声帯出血に関する研究は、医療機関を受診したプロの声楽家・声のプロフェッショナルを対象にしたものであり、すべての公演中止のケースにそのまま当てはまるわけではありません。プレゼンティーズムに関する研究も、農業従事者を対象にした系統的レビューであり、エンターテインメント業界に直接適用できるデータではない点にご留意ください。また、経済産業省の報告書に基づく数値は、あくまで2024年実績の推計値であり、為替変動や推計方法上の限界が報告書内でも明記されています。

まとめ 損失の大きさと、もう一つのリスクを両方直視する

コンサートツアー・海外公演は、数百億円規模の経済活動の一部です。その一公演が中止になれば、経済的な損失も、信頼への影響も、決して小さくはありません。

しかし、その事実は「何があっても出演すべきだ」という結論を正当化するものではありません。無理な出演は、声帯や身体への不可逆的なダメージという、別の重大なリスクを招きます。この二つのリスクの間で、本人一人に判断を背負わせるのではなく、判断が属人的な感覚だけに集約されない構造を、組織として持つこと。ヘルスコーディネーターの役割は、その場の判断者になることではなく、そうした組織の健康の構造を作り、支え、ツアーやシーズンを通じて継続していくことです。それこそが、ツアーの継続性とアーティスト自身の心身の両方を、長い時間軸で守る現実的な選択だと私は考えています。

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References
  1. 経済産業省 商務・サービスグループ 文化創造産業課『音楽産業における海外展開データに関する報告書』2026年4月 報告書PDF
  2. Ranjbar PA, Maxwell PJ, Barna A, et al. An Exploration of the Risk Factors, Severity, and Sequelae of Vocal Fold Hemorrhage in a Population of Voice Patients Before and After Diagnosis. Journal of Voice. 2023. DOI: 10.1016/j.jvoice.2023.06.009(PubMedにて確認)
  3. Siqueira VB, Rocha ASL, Schwingel PA, Carvalho FM. Prevalence of Presenteeism in Agricultural Workers: Systematic Review. Workplace Health & Safety. 2023. DOI: 10.1177/21650799231154281(PubMedにて確認)
Author
島脇 伴行(しまわき ともゆき)
BODY DIRECTOR 代表 / アメリカスポーツ医学会認定・運動生理学士 / ヘルスコーチ(心理学学位取得済)
ACSM認定運動生理学士
ACSM 認定運動生理学士
世界最大の運動医学組織

1977年生まれ。2002年パーソナルトレーナーとして開業。2005年、日本で初めてとなる完全個室の表参道プライベートジム「BODY DIRECTOR」を設立。

クライアントはエンターテイメント業界のアーティストや企業経営者が中心。2007年からスタジアム・ドーム・アリーナ各種ツアーへの帯同を開始し、600公演以上の現場でアーティストのコンディショニング・栄養指導・整体・コーチングを担当。筋トレだけでは健康効果に限界があるとの考えから、生化学を基にした栄養指導、自律神経系の調整に有益な整体をパーソナルセッションとして提供。

法人クライアント:株式会社ポニーキャニオン(IRORI Records)、株式会社ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス、株式会社トイズファクトリー、株式会社トランジットジェネラルオフィス、株式会社ラストラムミュージック、株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント ほか。

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